米子の皆生にある元防空壕こと 美保海軍航空基地 皆生送信所を散策

こんにちは

 

今回は米子市の皆生を散策してきました。

その時のYouTubeのアップロードがこれになります。

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住宅街の中にポツンと存在する掩体壕防空壕)かつては、美保基地の機材を入れるためのものとして昭和18年に作られたものらしい。 しかし、この辺りは、空襲などは無かったとのことで使ったという経歴は無し。 その後、米子の宝88選に登録されたという。 以下が概要になる。

 

【関連動画】

福生7区もう一つの古小路(現 福生東小学校区)!【路地裏散歩】 Totton 現在なお、健在の懐かしき上福原〜福生小学校までの通学路(鳥取県米子市上福原)2019.12.
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② 元 福生7校区!(現 福生東校区)【路地裏散歩】 Totton 現在なお、健在の懐かしき上福原の路地裏(鳥取県米子市上福原)2019.12.
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福生7区もう一つの古小路(現 福生東小学校区)!【路地裏散歩】 Totton 現在なお、健在の懐かしき上福原〜福生小学校までの通学路(鳥取県米子市上福原)2019.12.
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④ ‪【沖縄の戦跡】前川民間防空壕と前川樋川(まえかわひーじゃー)YouTube


<皆生送信所 概要>

昭和13(1938)年7月12日、張鼓峰事件(ソ連軍による国境侵犯事件)の発生を受け、海軍航空本部はソ連軍の策動、特に日本海側からの侵攻に備え裏日本に陸上航空基地の設営を決定、昭和14(1939)年10月、舞鶴海軍経理部が航空基地用地を買収し、昭和15(1940)年3月、舞鶴海軍建築部美保事務所の指揮、監督のもと設営を開始します。

 


昭和17(1942)年6月7日、ミッドウェー海戦の結果を受けた軍令部は従前の軍備計画、及び実行中の第五次軍備充實計畫(マル五計畫)を改定、航空兵力を急速かつ画期的に増勢する事を骨子とし、9月、「改マル五計畫」を策定し随時実行します。

「改⑤計畫」に則り海軍航空本部は設営の進む美保海軍航空基地に練習航空隊の設置を決定、同年、舞鶴海軍経理部は西伯郡福生村(現、米子市皆生)の農地を買収し皆生送信所を開設します。

 


昭和18(1943)年6月、美保海軍航空基地が竣工、昭和19(1944)年1月15日、第二美保海軍航空隊が開隊し中練教程を開始しますが、急迫する戦局に伴い次第に実施部隊の経由地としての利用が増加、教育に支障をきたして来た為、昭和20(1945)年2月11日、第二美保空は設営の進む大和海軍航空基地(奈良)に移駐します。

 


4月1日、第八〇一海軍航空隊 美保派遣隊、18日、第七六二海軍航空隊 攻撃四〇六飛行隊(銀河)、5月1日、山陰海軍航空隊(乙空)、12日、第七〇一海軍航空隊 攻撃一〇三飛行隊(彗星)、15日、第七六二海軍航空隊 攻撃五〇一飛行隊(銀河)、飛行第九十八戰隊(飛龍)が進出、天號作戰(沖縄航空戦)に従事後、決號作戰(本土決戦)に向け準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

 


28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により皆生送信所は内務省を通じ大蔵省に移管されます。

 


昭和22(1947年)年7月1日、皆生送信所は広島逓信局電波観測所に転用、昭和25(1950)年6月1日、電波監理委員会の設置に伴い中国電波監理局 米子電波監視局に改編、昭和27(1952)年8月1日、郵政省電波監理局に移管、米子電波監視部に改編、昭和47(1972)年4月1日、監視部は本局に統合され米子電波監視係に縮小、昭和51(1976)年3月31日、 米子電波監視係は廃止され、施設は大半が民間に払い下げられ、現在は住宅地になっています。

 

 

 

<遺構について>

美保海軍航空基地 皆生送信所

皆生送信所は第二美保海軍航空隊が中間練習機による飛行訓練をする際の送信所として設営されますが、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われる山陰地方特有の悪天候に対応すべく、近隣にあった米子飛行場を緊急避難所として訓練区域に組み込んだ事から該当場所に設営したと言われます。

先述の様に皆生送信所は全域は住宅地になり遺構は皆無ですが、隣接地に発電機壕が遺されています。

 


巷間では「通信壕」と言われていますが、遺構を見ると明らかに自力発電所です。

所有者については国有地、私有地の両説があり不明です

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米子研究集会より

「よなごの宝88選 」から

戦争遺跡(1) 《宝 No.82》 大篠津、葭津、崎津、皆生、奈喜良ほか

米子市内には戦争の時代を物語る建造物が今も残されています。市内には、昭和12年(1937)に米子国際飛行場 (両三柳)、無線電信局(西福原)、米子気象台、逓信省航空機乗員養成所、陸軍皆生転地療養所など国の重要施設が

整備され、特に第二次世界大戦中は、大陸に近いという地理的な理由から日本海側の防衛拠点として注目されました。

昭和18年(1943)、大篠津に海軍航空隊美保基地(現在は航空自衛隊美保基地米子空港と共用)が置かれ、艦載

機航空隊と多数の予科練習生が入隊しました。軍事物資や設備、人員などを攻撃から守るための施設には、大まか かまぼこ えんたいごう

にコンクリート製・蒲鉾型の掩体壕と横穴壕の二種類があり、弓浜地区を中心として20数か所確認されています。  大篠津の掩体壕は、当時医務室として使われ、その後通信機材格納庫としても使用されました。入口には「甲種 予科練習生練武之地」のプレートが掲げられています。葭津の内浜産業道路沿いの掩体壕は、入口が横に大きく広 がり飛行機の形をしています。これは艦載機を格納するために構築されたと伝えられていますが、実際には飛行機 は一度も入らずに終戦をむかえました。  皆生5丁目の住宅街緑地内の掩体壕は、昭和18年(1943)に開設された海軍航空隊美保基地米子送受信所の防空 施設のひとつです。戦時中は、近くにあった逓信省航空機乗員養成所の通信用施設として使われました。

ずい  奈喜良の国吉池脇の横穴壕は、終戦直前の昭和20年(1945)4月ごろから、海軍航空隊美保基地の隧道式空中魚

雷調整場として建造されたとされています。作業には舞鶴海軍施設部所属の朝鮮人労働者が動員され、近くの民家 の納屋や養蚕場へ寄宿したり、宿舎で自炊し従事したと伝えられています。奥谷・奈喜良地区には8基が予定され ていたとされ、その痕跡が残っています。【よなごの宝 88 選実行委員会】

 


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